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野村選手は大学で、柔道人生を大きく左右する恩師に出会います。

大学の監督は、84年のロス五輪柔道60キロ級の金メダリスト、細川伸二さんでした。口数が少なく、道場では一番奥で腕を組み、ジッと観察をしている。居るだけで空気が張り詰める存在感がありました。
 
二年生の時、野村選手は細川監督から「練習への取り組みが甘い」と指摘されます。

おまえは、”あと何分”と時間を気にして、それをこなすことしか考えていない。試合はそういうもんやない。これからは時間を気にするな。
 
バテたら途中でやめてもいい。常に試合を意識して、限界まで追い込んでみろ。

強さを求めて練習していても、長年続けていることでどこかに”慣れ”があり、練習が”こなす”だけのものになっていたのです。
 
細川監督は、野村選手の中に可能性を感じていたのでした。それを理解した野村選手は、細川監督の前を稽古の定位置にします。
 
その心構えが功を奏し、その夏の全日本学生体重別選手権で優勝を果たします。
 
そして4年生になった96年、アトランタ五輪の60kg級代表選手に選ばれます。しかしこの時野村選手が一番感じたのは、うれしさよりも「自分が代表でいいのか?」という、日の丸を背負うことの怖さでした。
 
そんな野村選手に、父・基次さんがこう声をかけます。

四年に一度のオリンピックに出場できるのは、ひと握りの人間だけ。この大舞台でプレッシャーを感じられるのは幸せなことだ。
 
だからプレッシャーに潰されるんじゃなくて、幸せを噛みしめてこい。

結果としてアトランタ五輪では金メダルを獲得。翌年の世界柔道パリ大会でも優勝し、野村選手はチャンピオンとなります。
 
大学院修了後は、スポーツ選手の支援に積極的なミキハウスに所属します。
 
野村選手は4年後のシドニー五輪にも出場が決まります。
 
この時基次さんは、毛筆書きでこんな言葉を送っています。

自信とは努力の裏付けがあってこそ持てるものです。不安とは努力していない結果。この四年間の努力と苦労した全てが自信となります。
 
親として指導者として君は最高の柔道選手であると確信しています。

試合前の不安をこの手紙で落ち着かせ、シドニーでも金メダルを獲得します。
 
心技体いずれもベストの状態で、最高の結果を出した野村選手は、「これで競技人生を終えられる」と考えていました。
 
しかし周囲はそんな意思とは裏腹に、「三連覇」への期待を勝手に高めていきます。これは野村選手を悩ませます。
 
野村選手は01年5月に結婚し、公私ともに充実しているはずでしたが、大きな悩みも抱えてしまったのです。
 
それに対処するべく、野村選手がとった行動は・・・。
 
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このコンテンツは週刊文春2015年12月31日・2016年1月7日142~145ページを参考にしています。