「猛練習」や「厳しい練習」というと、近年は前時代的もしくは古臭いイメージがあるようです。(管理人の勘ちがいでしょうか?)

精神論や非合理性やらと結びついて敬遠されたのか、あまり聞かなくなりました。
 

 
ラグビーの平尾誠二さんが「平尾誠二 名言録」で、猛練習の必要性を語られています。

同書の148~149ページから、一部を抜粋して紹介します。

猛練習の過酷な体験が窮地の自分を救う

平尾さんは「理屈抜きで猛烈な練習をすることも必要」として、このように主張されています。

最近は、練習が妙に科学的になったというか、「何のためにするのか」という目的と合理性を求めるようになっている。
 
もちろん、それは当然で、必要なことではあるけれど、時にはそういうことを無視して、理屈抜きで猛烈な練習をすることも必要だと私は思う。
 

その理由は何でしょうか?

苦しい時やつらい目に遭った時に、こう思えるからだ。
 
「あれだけきついことに耐えたのだから、絶対に神様ははおれを見放さない」
「努力は絶対に嘘をつかない」
「あの時のつらさに比べれば、なんでもない」
 
自分の限界を超えるような苦しさやつらさを乗り越える体験をすることで、そういう信念というか、哲学が自分のなかに植えつけられるのだ。
 

実は管理人も(古い人間だからか?)平尾さんの考えに共感いたします。
 
何をもって「猛練習」と呼ぶかにもよりますが、結果を残すためには厳しい練習が必要と思うのですがいかがでしょうか。